こんにちは
長浜もやっと桜が咲き誇る季節となりました。近畿では遅い方なのですが、それでも例年よりは早いですね。
さて、前回ブログでは曳山祭り全般について、お話させていただきました。今回は、今年の我が出番山「翁山」の子ども歌舞伎にまつわるお話を、ご紹介いたします。(実は翁山パンフレットにウチが寄稿した内容をアレンジして掲載だったり(笑))
翁山が今年取り組む外題(歌舞伎のタイトル)は「一谷嫩軍記 熊谷陣屋(いちのたにふたばぐんき くまがいじんや)」
一谷でピンとくる通り、源平軍記物です。
源氏方の武将・熊谷直実は、主である源義経より平家追討に際し「一枝を伐らば、一指を剪るべし」と謎の密命を受けます。それは敵方の年若き将、平敦盛を秘密裏に生き延びさせよという意味の難題でした。それは義経の意向だけではなく背後には後白河法皇の意向でもあること。(この演目の中では敦盛は後白河院の御落胤という設定なのです。)
…この命令は違えることは出来ない。でも敦盛ほどの敵将なら、首実検もする訳だから「逃がしました、見つかりませんでした」が通じる訳がない。
それに「一枝」に対し「一指」って………まさか?
熊谷直実は密命の真意を解し、非情の選択をします。…そして義経の軍は敦盛軍を見事追討、首実検が始まります。…というあらすじ
続きは曳山祭りで
さて、ここからがコラムの本題
今回の演目「熊谷陣屋」に出てくる、『首実検』。
劇中にもある通り、討ち取った敵方の首を大将が確認することです。
この儀式、どうやら源平の合戦の頃には既に行われており、これにより、味方の論功行賞が大きく決まりました。時代を経て、戦国時代には、故実・前例を踏まえ、自軍の士気昂揚や討ち取った敵方への賞賛、弔いのため、しきたりや儀式の作法、賞罰の基準などが細かく決められ、それに則り執り行われました。少しご紹介してみましょう。
勝敗が決したのち、大将は具足を完全武装して、南中央に着座する。
そこへ披露役の奏者と呼ばれる家臣が綺麗に洗った相手の首を北向きに向けて、台に載せ持ってくる(勝者は
南を向き、敗者は北向き=「敗北」ということ)この時、奏者は首を討ち取った味方の名前、首の身分名前を報告する。
披露された首を、大将は立ち上がり、弓・太刀を構えながら、左目尻越しに確認する。(直視せず、心の中で成仏の呪いを唱えながら見るらしい。)
もちろん、ここまで礼節を払って儀礼通り確認するのは、敵方でも、上位の武士であったり、武勇を轟かせた名将であった場合。雑兵やそれほど身分の高くない人の首は、一つ所に集められ、家臣が確認して後は埋められたそうです。
なかなか、相手方の有力者を討ち取るのは難しいもの。しかし、戦場に赴いた以上、誰しも手ぶらでは帰れません。
「なんとか武功を…しかもなるべく安全な方法で…」なんて考えてしまう人がいるのも世の常。そこに、誰かが置いて行った、相手方の首が落ちていたら…拾ってしまう!いっぱい持っている同僚がいたら…奪いに行く!?
「拾う・奪う」どちらも「拾い首・奪い首」と言って罰せられる行為でした。
また、身分の高くない首を、化粧や拾った兜等で偽装する行為もあったとか。これも、もちろんバレたら大変恥ずかしい行為でした。普通に考えても相手(首の人)に大変失礼ですよね。お互い生死に係わるからこそ、武士としての誇りの尊重や礼節が求められたという事ですね。
さて、討取る側も礼を欠いてはならないものですが、討ち取られる側も、そこは武士。首級となる最期の顔にも実は評価がありました。
一番「良い顔」とされたのは、やはり穏やかな表情。逆に目の向きや口元に苦悶や遺恨が表れていると、身分の高い人を討ち取っても、評価が下がることも。
討ち取る側には、相手に「この者に負けるなら本望だ」と、思わせる器と相手を苦しませない技量が求められ、討ち取られる側にも悔いを残さない覚悟が求められる。
合戦とは、首を懸けて戦う武将とは、現代人の想像を絶する命の遣り取りですね。
参考文献「図説 日本戦陣作法事典」笹間良彦 柏書房
「戦国合戦の常識が変わる本」藤本正行 洋泉社
「戦国合戦の実相」双葉社スーパームック
このイラスト描いた時、一助より「絵がソフトで良いねんけど、何故江戸風ちょんまげなの?」と突っ込まれる。
以上…4月から首ネタってどうよ
って気がしなくもない、軍記物こぼれ話でした。
こちらの内容は、祭り期間中販売される、各出番山パンフレットの中の「翁山パンフレット」にも掲載しております
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